鎌倉時代になると、7歳で仏門に入り弱冠17歳で比叡で顕密二法を修めた俊英の僧であった麻布山善福寺の了海上人(「大谷遺跡録」に名が残る関東六老僧のひとり)は、流されていた越後から京に上る途中に訪れた親鸞聖人の高徳に傾倒して、一山をあげて真言宗から浄土真宗に改宗しました。蒙古の二度にわたる来襲に際して、当寺は文永3年(1266年)に亀山天皇から勅願寺とされました。
安土桃山時代の浄土真宗本願寺勢力と織田信長の戦い(石山本願寺と織田信長が戦火を交えた一向一揆/石山合戦)で、当寺は大阪石山本願寺に籠城する僧に援軍を送りました。乱後、豊臣秀吉は関東を平定すると、天正18年(1590年)、当寺に寺領保護を誓約しました。
江戸時代、三代将軍徳川家光は、甲吉豊後守に命じて当時の建築の粋を集めて当寺の本堂を建立し寄進しました。
安政6年(1859年)5月27日、タウンゼント・ハリスがアメリカ駐日公使に昇任したことを幕府に伝達すると、当寺は初代アメリカ合衆国公使館としてハリスと館員たちを迎えました。しかし、攘夷を唱えるひとびとの襲撃を受け、庫裡、書院などは焼失。それでも僧たちの機転によって身をもって公使館員を守り日米の友好の絆を深めました。
その当時から三井物産創立者である益田孝氏、古河財閥創業者の古河市兵衛氏、慶應義塾創立者の福澤諭吉氏といったひとびとが頻繁に訪れていた当寺は、明治8年(1875年)12月8日までアメリカ合衆国公使館として使用されました。
昭和20年(1945年)5月、米軍による大空襲で当寺は伽藍を失いましたが、多方面より復興の声があがり、昭和36年(1961年)、徳川家康が建立した東本願寺八尾別院本堂を譲り受け本堂として再建完成させました。
平成20年(2008年)には、門信徒の方々のご厚意により本堂の大改修を行っています。翌平成21年(2009年)には、江戸時代の大規模な浄土真宗の本堂をよく示す都内有数の建造物として港区の有形文化財に指定されました。
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